私達は自己実現したとき仕合わせを感じますが、それに劣らず、相手が喜んでくれるときも仕合わせな気持ちになります。
さらに一歩進めて考えると、相手も、また、他人である自分が喜ぶと、仕合わせな気持ちになります。
目次
- 1.仕合わせを感じるときは自己実現したとき
- 2.自己実現より相手に喜んでもらったときの方が、より一層、仕合わせを感じることがある
- 3.相手もまた、自分が喜んだ時に仕合わせを感じるときがある
- 4.自分が嬉しいときは、飛び上がらんばかりに喜ぶ
1.仕合わせを感じるときは自己実現したとき
私達は、どういうときに仕合わせを感じるのでしょうか。
大抵の場合は、自己実現したときです。
それも困難であれば困難であるほど、それを克服して自己実現したときは、喜びはひとしおです。
バルセロナオリンピックで、当時14才であった岩崎恭子選手が水泳で金メダルを獲得したとき、「今まで生きてきた中で、一番仕合わせです」と言ったことが想い出されます。
難関の試験に合格したとき、大きな仕事を成し遂げたときなど、誰もが自己実現したときは仕合わせな気持ちになります。
2.自己実現より相手に喜んでもらったときの方が、より一層、仕合わせを感じることがある
ところで、私の経験では、自己実現したときはもちろん嬉しかったのですが、それよりも相手に喜んでもらったときの方が、より一層、嬉しかったことがあります。それも数段嬉しかったことがあります。
その理由は何故だか解りません。
不思議といえば不思議ですが、確かにそうなのです。
自己実現したわけではないのに、相手に喜んでもらったに過ぎないのに、相手の喜んでいる姿に遭遇して、大変仕合わせな気持ちになったことがあり、そうして相手の喜びが大きければ大きいほど自分の喜びもまた大きいということがあります。それは自己実現したときの喜びより、比べようもないほど大きな喜びでありました。喜びの質が違います。
このような経験をしている人は私一人ではないと思います。
3.相手もまた、自分が喜んだ時に仕合わせを感じるときがある
私自身が、相手の喜ぶ姿に出会って、大変仕合わせな気持ちになるのであれば、相手もまた、他人である自分の喜びようをみて、仕合わせな気持ちになることもあるのではないか、そうして自分の喜びようが大きければ大きいほど相手の喜びも大きくなるのではないか、と考えてみました。
4.自分が嬉しいときは、飛び上がらんばかりに喜ぶ
上の消息を一歩進めて考えると、それまでは気づかなかったのですが、自分自身の喜び方そのものも、実は、大変大切なことなのではないか、と考えました。
それなら、どのような喜び方があるのかというと、それは、喜びを大きく表現する、ということではないか、と思うのです。
自分が嬉しいときは、大きく喜びを表現する、そのことでそれに接した相手は、その分だけ大きく仕合わせな気持ちになるのではないか、と思うのです。
もちろん、大きな喜びでもないのに、とってつけたように大袈裟に喜んでも、相手はすぐに見抜いてしまいます。
そういうことを言っているのではなく、相手から受けた言動や行動に対して、素直に嬉しいと思ったときは、その気持ちを、ストレートに大きく表現する、オーバーに言えば、喜びを爆発させる、ということです。
それまでの私は、自然体で、相手が喜ぶ姿に接すると、その相手の喜びの度合いに応じて、喜んでいました。
自然体は、それはそれで大切なことですが、自然体の延長線で、思い切って大きく喜びを表現する。そうすると、喜びの表現が大きければ大きいほど、きっと相手の心をより和ませ、相手をより仕合わせにするのではないか、と思うのです。
考えてみますと、自分自身の喜び方、表現方法も人生において大きな比重を占めるのであり、相手の仕合わせを大きく増幅させるに違いない、と思うのです。