私達は、多くの人が、何らかの職業に就いています。そして職業を通して「世のため人のために尽す」という命題に、意識的にせよ、無意識的にせよぶち当ります。それをどのように咀嚼したらよいのかを考えてみたいと思います。「世のため人のために尽す」といいますが、自分のこととして考えた場合、それは一体全体何なのだろうか。
目次
- 1.自分の選択した職業は「世のため人のために尽す」ということと無縁ではないのか
- 2.職業を選択した基準は生活のためが第一ではなかろうか
- 3.「駕籠(かご)に乗る人、担(かつ)ぐ人、またその草鞋(わらじ)を作る人」
- 4.職業には社会貢献しない部分もある
- 5.どんな職業も人との交わりがあり、人を感動させる機会がある
- 6.「トンカツ屋」のおかみの話
- 7.「世のため人のために尽す」と職業の選択
1.自分の選択した職業は「世のため人のために尽す」ということと無縁ではないのか
「世のため人のために尽す」ということがいわれています。挨拶などで、「私は仕事を通して、世のため人のために尽す」と広言する人がいますが、安易すぎてギョッとします。一体、どういう料簡でこの言葉を発しているのだろうか、と思ったりします。
私達は、社会の構成員として何らかの仕事に携わっていますが、その仕事自体が「世のため人のためになっている」と考えている人は、そう多くはないのだろうと思います。
医師とか看護師とか教師とか、仕事そのものが直接的に人助けとか、人の育成とかに結びついているものは別ですが、多くの場合は、例えば企業の一員であるサラリーマンは、自分の従事している仕事が「世のため人のためになっている」と思っていないでしょう。少なくとも、日々、仕事をしながらそれを実感している人は少ないでしょう。
2.職業を選択した基準は生活のためが第一ではなかろうか
自分の携わっている仕事を無理にこじつけて、「世のため人のため」といったって、ピンときません。殆んどの人が生活のために仕事をしているというのが正直なところでしょう。「仕事を通して世のため人のために尽す」といったって、よく言うよです。
そうであるなら、仕事に関する限り、「世のため人のため」という命題は放棄されるものでしょうか。
そうではないと思います。
3.「駕籠(かご)に乗る人、担(かつ)ぐ人、またその草鞋(わらじ)を作る人」
この言葉は、「世の中には階級、職業がさまざまであって、さまざまな境遇の人が持ちつ持たれつして成り立っている。どれ一つとっても欠かすことができず、そのおかげで社会が成り立っている。どの職業も立派に役に立っている」ということです。
自分自身が携っている仕事が、「 世のため人のために尽す」とピンとこなくても、すべての仕事は社会で一定の役割を担っており、立派に社会貢献をしている、といえます。それぞれが自分の与えられている仕事を全うすることで、社会の一員としての役割を果し、「 世のため人のために尽している」といえます。
ここで弁護士を例にとってみます。
AとBの間に金銭トラブルがあります。
Aについた弁護士はAのために、Bについた弁護士はBのために、弁論を展開します。
Aについた弁護士は、Aの正当な利益を実現する限りで、Aのために知恵を絞り、何とかAに有利なように努力します。Bについた弁護士は、Bの正当な利益を実現する限りで、Bに有利なように努力します。
双方の弁護士とも、直接的には 「世のため人のために尽す」のではありません。Aに有利なように、Bに有利なように努めます。その結果Aに有利な判決がでれば、それは反射的にBにとって不利な結果となります。
弁護士は日常の仕事のなかで、自分のやっていることが、「世のため人のためになっている」のか、ひそかに疑問をもっていることでしょう。
しかし個人間の争いが、個人間の歩み寄りで解決できればよいのですが、そうはいかなくなったとしても、暴力によって解決するのではなく、裁判によって解決することで(自力救済禁止の原則)、社会の秩序が保たれています。弁護士は裁判制度の中で裁判官とともに立派な役割を担い、立派に社会貢献を果しているといえます。
4.職業には社会貢献しない部分もある
ところで、上記で触れたように、どの職業も社会の一部を構成し、社会において一定の役割を担っているといえますが、すべてがすべて社会に貢献しているとは限りません。
例えば、自動車についていえば、自動車は間違いなく私達に便益をもたらしていますが、他方で排気ガスを発生し、地球温暖化をもたらしています。正しく社会貢献する道に軌道修正をすることが今日的課題となっています。
そのほかにも、例えば、農業における農薬、漁業における養殖魚、健康に害を及ぼすものが少なくありません。
私達の職業は、それぞれが社会の一部を構成し、社会で一定の役割を担っており、自分に与えられた仕事を全うすることで「世のため人のために尽す」といえますが、職業そのもの、或は職業の一側面が社会に害を与えるものもあるんだ、ということを忘れてはならないと思います。
私達の職業が丸ごと或は大筋で社会に貢献しているか否かは、常に吟味する必要があります。
社会に害を及ぼすのであれば、大変困難なことですが、社会に貢献するように軌道修正する労を惜しんではなりません。
5.どんな職業も人との交わりがあり、人を感動させる機会がある
さて、職業を遂行するうえで、忘れてはならないことがあります。
それは、どんな職業も人と人との接触があるということです。
一見、世のため人のために役立っているとはいえそうになくても、人との接触において、「世のため人のためになっている」ということがあります。実は、このことが「世のため人のために尽す」という命題の答えとして、忘れがちとなりますが、大変重要なことではないか、と考えています。
弁護士であれ、自動車産業の従事者であれ、農・漁業従事者であれ、与えられた仕事を全うする中で、明るく、朗らかに、誠意をもって人と接触する、これが何よりも大切であり、そうしてまわりまわって「世のため人のために尽す」ことになっているのではないか、そう思うのです。
この消息は、案外、大多数の人が気づいていないのではないでしょうか。
6.「トンカツ屋」のおかみの話
今は閉店してありませんが、私の事務所の近くにこぎれいな「トンカツ屋」がありました。そこのおかみは、私の行き付けの床屋の話によりますと、昔は美人で小野小町といわれたそうです。そのおかみですが、客への気配りはそれはそれは素晴しいものでした。
お茶がなくなりそうになると素早く客席まで来て、「お茶は如何ですが」と聞いてきます。タイミングが絶妙なんです。
何度か女房を連れて「トンカツ屋」で食事をしましたが、普段は厳しい彼女も、おかみの対応に感心しきりでした。
おかみはヘルメットを被り、ミゼットに乗って、近所を配達してまわっています。その姿をよく見かけたものです。
その働きぶりは、私の心を温かく温かくしてくれました。多くの人に元気を与えてくれたと思います。
7.「世のため人のために尽す」と職業の選択
私達は、それぞれの背景のもとで職業を選択し、それにより生活を営んでいます。
職業には社会に害を及ぼす部分もあり、それは批判的に吟味しなければなりませんが、それぞれの職業は社会の一構成部分を形成しており、一定の社会的役割を果しています。
その意味で与えられた仕事を全力で全うすることは大変意義のあることです。
そうして仕事を全うしながら、明るく、朗らかに、誠意をもって人に接する、「トンカツ屋」のおかみのようにです、そのことが、仕事を全うするとともに大変大切なことだと思っています。
どんな職業においても、明るくて、朗らかに、誠心誠意、依頼者や仲間に接することで、「世のため人のために尽す」ことができるのであり、また最も意を注ぎたいことです。