生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

上から目線、自己中、KY(空気を読めない)、3つの流行語を考える

 

1.上から目線 

あなたの言っていることは「上から目線じゃないか」と言って人を非難しているところに遭遇することがこの頃めずらしくありません。

言われた人は黙って無視するか、話題を変えるか、「そう言うあなたこそ上から目線じゃないか」と反論して言い争いをするか、いずれかになります。

「上から目線」は、よく使われていますが、どうも便利な言葉のようで、相手の態度がでかいとき、相手を一蹴するのに使われています。

現代の民主主義社会では、大多数の人が「上からの目線」でありたくないので、この言葉を浴びせられると、心が萎えます。

「上から目線」は強い言葉で、これが飛び交う社会はギスギスします。

 

2.ジコチュー(自己中) 

「ジコチュー(自己中)」という言葉もよく使われています。

あなたは自己中だ、〇〇さんは自己中でどうしようもないね、などと日常会話でしばしば登場します。

ところで、人は多かれ少なかれ、自己中心的で、自己中です。

自分は全く自己中心的でない、という人などこの世の中には存在しません。

誰しも自己中心的ですが、人と比較して自己中心的な側面の強い人を、私達はあの人は自己中だと言っています。

「自己中」は強い言葉で、この言葉を浴びせられると大変嫌な気持ちになります。

あちらも「自己中」、こちらも「自己中」と飛び交う社会はギスギスします。

 

3.KY(空気を読めない) 

「KY(空気を読めない)」という言葉も頻繁に使われています。

人は、あの人はKYだから、といって遠ざけようとします。

KYだと場を白けさせます。気の利かない人というのです。

「上から目線」や「自己中」の人は、人に不快感を与えるのに対し、KYの人は、人に対して直接的に不快感を与えません。場違いで白けるのに気の毒だなと周囲の人が思うにとどまります。もちろん場合によっては、不快感を与えることもありますが。

ところで、非常に頭の良い人は、自己の信ずるところを述べるとき、多少とも、空気を読めない、或は読まないときがあります。

私の敬愛してやまない大学時代の恩師I先生がそうでした。難しい話しで、この場では誰も理解できないのになあ、ということでも、堂々と信ずるところを述べておられたことがありました。

私はそれを聞いて戸惑いませんでした。むしろ先生の人柄に接して感動しました。

 

4.3つの言葉の共通点 

言葉が流行するのは、時代の閉塞感が背景にあるからだと思います。

先行きの見えない行き詰まった状態の中で、「上から目線」、「自己中」、「KY」は、いずれも対象者を非難し追い込んで自らは気分をよくする意味を持った言葉です。

閉塞感から一時的に自分を解放する言葉です。

利他の心、愛の心の言葉ではありません。

またこれらの言葉は、まわりくどくなく意味を直截的に現しています。また言いやすいという特徴があります。

態度がでかい、小ばかにする、に比べ「上から目線」

自分勝手、わがまま、に比べ「自己中」

場違い、場所をわきまえない、に比べ「KY(空気を読めない)」

 

5.「責任をともなう自由主義」における言葉の選択 

これら3つの言葉は、人々の間で使われるようになってから時間が経ちますが、今もよく使われています。

いずれも、自分は横においといて、相手に対して放たれます。

自分は一体全体どうなんだ。

自分のことを考えると、容易に使われる言葉ではありません。

自分自身も「上から目線」であったり、「自己中」であったり、「KY(空気を読めない)」であったりすることを否定できないはずだからです。

現代は自由主義社会で、自由は尊重されなければなりませんが、自由だからといって何でもあり、というのは賛成できません。

私は、自由主義といってもそこに責任という冠をつけた自由主義でなければならないと考えています。

新しい時代は、「責任をともなう自由主義」を標榜するものでなければならないと考えています。

「上から目線」、「自己中」、「KY(空気を読めない)」が乱発される社会は、利己的社会であり、利他的社会ではありません。「責任をともなう自由主義」のもとでは、厳に慎む言葉です。

現代はせちがらい社会です。

これらの言葉が飛び交う社会はギスギスします。

各自が責任をもって言葉の選択をする必要があります。

言葉は人を動かし社会を変えていく力があるのですから。