生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

君たちはどう生きるか-漫画・原作  要約・名言そして感想

漫画 君たちはどう生きるか人生は一度きりしかありません。ニ度も三度もあるわけではありません。誰しも、できることなら、生きていてよかったと思う人生でありたいと思います。

君たちはどう生きるか」は、私達を「生きる」ことの原点に立たせてくれます。私達に人生の構築或は再構築を働きかけてくれます。

原作は、1937年8月に初版が刊行されています。その年に盧溝橋事件が起き、日本が軍国主義に染まっていった時代です。漫画は昨年2017年8月に刊行されています。

君たちはどう生きるか」は、旧制中学の2年生で15才になるコペル君のへんな経験や友人達との交流や学校生活での出来事などが描かれていますが、それに即して「おじさんのノート」が登場して一つのパートを構成しています。

「漫画・君たちはどう生きるか」は、漫画では、「コペル君の日常的出来事」が原作の中から拾って書かれていますが、大きく割愛されたところもありますし、逆に原作にない場面をつけ足したものもあります。各章の内容構成等も多少違います。しかしストーリーとしては崩されないように漫画化されています。これに対して、「おじさんのノート」は原作をそっくりそのまま載せています。

当ブログでは各章にしたがって、漫画をメインに、原作は漫画にないところを中心に、あらすじを載せ、おじさんのノート(漫画・原作同じ)を要約し、私の感想を書いていきます。そして、最後に原作を理解するうえで欠かせない、丸山真男氏の原作をめぐる回想の要約を載せています。

漫画・原作ともに出版されている本は、いずれも一読に値しますので是非手にとって読まれることをおすすめします。

漫画・君たちはどう生きるか  吉野源三郎(原作) 羽賀翔一(漫画) マガジンハウス 

君たちはどう生きるか  吉野源三郎著 岩波書店岩波文庫

 

なぜ、今、「君たちはどう生きるか」がベストセラーなのか 

昭和39年3月28日、私が高校3年生のとき、その日の各紙夕刊に、当時の東大総長大河内一男氏の卒業式における、「太った豚より痩せたソクラテスになれ」という訓示が大きく取り上げられました。今では全く考えられないことです。当時は、今と違って社会が経済一辺倒ではなく、それこそ「どう生きるか」ということを人々が考える時代で、東大総長の訓示が新聞の記事として取り上げられたのは、そのような時代背景があったからです。

しかし、いつ頃からでしょうか。バブルより少し前からだったのでしょうか。世の中の人々の関心はもっぱら経済、俗にいう金もうけにそそがれ、精神的な高みを目指すという気風は失せてしまっています。いま、「太った豚より痩せたソクラテスになれ」という記事が新聞に載っても、笑い草になるだけで、誰も見向きもしないでしょう。そういう時代に、「君たちはどう生きるか」という本が登場し、ベストセラーになっています。私は、「おやっ」とおもいました。なぜ、この時代にベストセラーなのかという点に関心が向きました。    

冒頭

漫画

冒頭で原作にないシーンが登場します。本書の終わりの方で、コペル君は、雪合戦で北見君を見捨て、4人で交わした約束を破ってしまったことを後悔し苦しみ、そこから立上ろうとしますが、それを冒頭にも載せています。  

へんな経験 -ものの見方について-   

漫画 

 コペル君はおじさんと銀座のデパートの屋上から、雨粒くらい小さな人や車を見て、「人間って分子なのかも」とつぶやきます。遠くにいる人も、近くにいる人も、おじさんも、僕も・・・。

原作

原作でも、コペル君とおじさんが 銀座のデパートの屋上から眺めた光景が描かれますが、その描写は神経が配られていて繊細です。例えばつぎのとおりです。

  • 銀座通りをたくさんの自動車が、甲虫の群れのようにゆきかっている・・・
  • 霧雨の中に茫々とひろがっている東京の街が暗い冬の海のように見え、ビルディングが海面からつき出ている岩のように見えた・・・
  • 無数の小さな屋根がどこまでも続く、数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている・・・
  • 潮の干満のように昼間は東京の外側から大変な人数が押しかけて来て、夕方になると、一時に引上げてゆく・・・

おじさんのノート

  • 地球を中心に太陽などの天体が回るという天動説に対し、コペルニクスによって太陽を中心に地球などの天体が回るという地動説がとなえられたときは、それこそたいへんな騒ぎでした。
  • 人間は大人になると、多かれ少なかれ地動説のような考え方になってくる。しかし大人になっても、殊に損得にかかることになると、自分を離れて正しく判断することが(地動説)、非常にむずかしい。
  • 天動説のような考え方、すなわち自分を中心にして物事を判断してゆくと、世の中の本当のことを知ることができなくなる。 

私の感想 

自己中心的でなく、自分を離れて正しく判断することが大切なことはそのとおりだと思いますが、実際の生活のなかで考えてみますと、損得にかかわること、なかんずく金銭にかかわることになると、殆んどそれはできない相談ではないか、と考えています。人間には、自己中心的発想から逃れることができないこともあると思います。間違っているのでしょうか。こういう認識は、それはそれで大切なことだと思うのです。おじさんは、この点についてふれていませんが、私はまずこの点を認識することが大切だと思います。そして、しかし、こういうことにおいてすら、もしかして、コペルニクス的展開ができる場合があるかもしれません。その場合は、どんな飛躍がその人に訪れるのでしょうか。いったん立止って、自分中心から離れて物事をみることは、試みてみる価値のあることだと思います。

 

勇ましき友・油あげ事件 -真実の経験について- 

漫画 

コペル君の親しい友達には、水谷君(小学生時代の同級生)、北見君(ガッチン)、浦川君(家が豆腐屋)がいます。浦川君は、山口君をボスとするグループに、弁当のおかずがいつも油揚げなので、かげで油揚げって呼ばれたり、いじわるされているんだけど、誰からも助け船が出されてません。

11月のクラス会での役割分担で誰が演説するのがいいか、ということになって、「アブラアゲニエンゼツサセロ」という紙が山口君によって回されます。北見君(ガッチン)は、誰がなんと言ったってもう許さん、ひきょうだぞ山口・・・!!といって、ついに山口君をやっつけようとします。

原作

原作と漫画では大まかなところは変わりませんが、原作では漫画にないものとして、コペル君と北見君が仲良しになったいきさつ、浦川君がクラスの中で馬鹿にされている理由、大川先生が北見君と山口君のけんかを諌めたことなどが書かています。

おじさんのノート

君の父さんは、亡くなる三日前に僕をそばに呼んで、君についての希望を僕に言いおいておかれた。「私はあれに、立派な男になってもらいたいと思うよ。人間として立派なものにだね」。このノートブックに、いつか君に読んでもらうつもりで、いろんな書いておくのも、実は、お父さんのこの言葉があるからなんだ。

肝心なのは自分の体験から出発して考えてゆくということだ

ある時、ある場所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが本当の君の思想というものだ。

君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、大切にしなくてはならない。

私の感想

一度の経験の中に、その時だけにとどまらない、私達にとって真実の思想が形成されるというのは本当のことだと思います。

私は、このような経験を当ブログに載せてきました。

当ブログの冒頭にのせた、( 生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか 2016/09/16 )は、私が直接に経験から裏付けされたものではありませんが、長い間の経験が下地となって、私が真底得心したことです。

成功と失敗・勝負の分かれ目は諦めようとした、まさにその時 2016/09/23 )は、私が苦労に苦労を重ね、もうこれ以上は踏んばれないところまで努力した結果、競争に打ち勝つことができた経験に基づいたものです。

2年目のジンクス 信じられない気の緩み、1年目の倍近い練習が必要 2016/09/24 )は、当ブログの中では書いていませんが、私の経験に裏打ちされたものです。

インスピレーション 論理の積み重ねを超えて真実に達する 2016/09/25 )は、大学時代の答案で、実際に私が経験したことです。

生きる知恵「ゴーサインは一呼吸置いてから」で間違いを防ぐ 2016/09/28 )は、父の教えですが、私は何度となくこれによって救われています。

人生は蒔いた種どおり 親の介護をするのはどの子供 2016/10/14 )は、私の経験の中で何度も何度も、そのとおりだと得心したことです。

真の幸福感 土地の有効利用でのオーナーとの出会い 2016/12/16 )は、「自分が最も大切に思うまさにその人から、自分もまた最も大切にしてもらっていると信じる時こそ、人は真の幸福感を味わうことができる」という大学時代の恩師の言葉をオーナーとの交流で私が実感したことです。

脱サラに成功するうえで最も大切なこと(私の体験から) 2017/01/24)は、私自身の経験に即したものです。

 

ニュートンの林檎と粉ミルク -人間の結びつきについて-  

漫画 

おじさんはコペル君の家で「ニュートンの発見した万有引力の法則」の特別講義をコペル君、水谷君、北見君にしました。リンゴを地上10メートル、100メートル、月の高さまで上げたら・・・。月は落ちてこない。

コペル君は病気で学校を休んでいる浦川君のうちに行きます。病気なのは浦川君ではなく店の若い者で、そのため浦川君は学校を休んで家の手伝いをしています。

コペル君は、浦川君のうちから帰って、お母さんの台所の手伝いをしますが、そのとき台所の棚からうっかりオーストラリア産のラクトーゲンのドライミルクの缶を落としました。そしてドライミルクの缶をじっとみつめていました。その晩はよく寝つけません。で、おじさん宛に手紙を書きます。

原作

原作では、コペル君の家に、水谷君、北見君が訪ねてきて3人で遊びます。「早慶戦の実況放送」では大いに盛り上りますが、漫画ではこのシーンは割愛されています。そしてそのあと、おじさんの万有引力の解説が長々と続きます。 

コペル君の手紙 

「粉ミルクが日本に来るまで」牛、牛の世話をする人、乳をしぼる人、それを工場に運ぶ人、工場で粉ミルクにする人・・・。

「粉ミルクが日本に来てから」汽船から荷をおろす人、それを倉庫に運ぶ人、倉庫の番人、売りさばきの商人・・・。

オーストラリアの牛から、コペル君の口に粉ミルクがはいるまで、とてつもなくたくさんの人がつながっています。

僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに網のようにつながっているのだと思います。それで僕はこれを「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。

おじさんのノート

おじさんはコペル君に教えます。

  • コペル君が気がついた「人間分子の関係」というのは、学者たちが使っている「生産関係」と呼んでいるものだということ
  • 「人間分子」の関係は、まだ人間らしい人間関係になっていないこと
  • 君のお母さんは、君のために何かしても、その報酬を欲しがりはしない。人間らしい人間関係とは、人間が人間同志お互いに、好意をつくし、それを喜びとするものであること。

私の感想

本当に人間らしい人間関係は、人間が人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとするものだというおじさんの教えは、その通りだと思います。しかし、人間社会において、人間らしい人間関係がこの先できるのかしら、と思います。虫瞰図的にみれば、人間一人一人が、理想的な人になればできるのですが、それは現実離れして、できない相談です。私利私欲から全て解放されることはありえません。鳥瞰図的にみれば、未開の時代は、人間同志がみんな顔見知りの間柄であったものが、時代が進めば進むほど、ことにインターネットで世界が情報交換でつながるようになった時代では、なおさら、人間同志が赤の他人の関係になっていて、人間らしい関係を打ちたてることは困難になっています。

しかし、人間一人一人が自ら変わっていくことを放棄するのであってはならないと思います。困難なことですが、お互いに、好意をつくし、それを喜びとする人間関係をつくることに意を尽すのでなければならないと思います。それが人間が人間らしい関係を打ち立てるための出発点ですから。

 

貧しき友 -人間であるからには- 

漫画

コペル君は、浦川君の家にいって、浦川君が学校を休んでいる間に進んだ授業のノートを見せます。浦川君のお父さんはお金の工面に故郷の山形までいっており、お父さんが帰ってくるまでは浦川君は学校を休んで家の手伝いをしており、家の貧しさに負けないで頑張っています。

原作

原作は漫画に比べ、浦川君のうちがある街や、浦川君のうちの様子が詳しく書かれていて、貧乏な生活が鮮明に描かれています。

原作では、浦川君のうちに勤めている若い衆の吉どんのことが描かれています。また背中に赤ん坊をくくりつけた浦川君の妹の小学校五、六年ぐらいの女の子と、 六つばかりになる弟の男の子が鯛焼をもって登場します。しかし、漫画ではこれらは割愛されています。

おじさんのノート

今の世の中は、貧乏のため人間らしい暮らしができない人が大多数を占めており、そのため痛ましい出来事が多く生まれている

君のような妨げもなく勉強ができる境遇にいることが、どんなに「ありがたい」ことかということを、君にはしっかりわかってもらいたい。

君の生活は、「消費専門家の生活」と言っていい。

自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで消費するばかりしている人間と、どっちが大切な人間か-こう尋ねてみたら、それは問題にならないじゃないか。

「君はたしかに消費ばかりしていてなに一つ生産していない。しかし自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったいなんだろう」

私の感想

この本が出版された1937年(昭和12年)は、世の中で、大多数を占めている人は貧乏な人々で、人間らしい暮らしができないでいる時代でした。そこでは、貧困の問題が大きな社会問題としてありました。

ところで、現代は、もちろん決して貧困の問題がなくなったわけではありませんが、この時代のような、日本の中に大多数の貧困層が存在しているわけではありません。しかし、コペルニクス的展開(地動説)で、世の中を見れば、今でも世界中には、例えばアフリカなどに、多数の貧しい人がいて、多くの人が不幸に沈んでいます。コペル君に投げかけたおじさんの言葉は、今の時代にも通じるものがあります。私達はどう受け止めたらよいか、私達一人一人が自分で判断し自分で解決していかなければならないことだと思います。

 

ナポレオンと4人の少年 -偉大な人間とはどんな人か-

漫画 

山口君が、水谷君(ガッチン)にやっつけられたことをうらんで、山口君の兄貴(上級生)たちに頼んで、水谷君をこらしめようとしています。コペル君達は、おじさんからナポレオンの話を聞いて、どんな状況でも決して屈することがなかったナポレオンの強さを知ります。コペル君達は、上級生が殴ってきたら、4人でいっしょになってガッチンを守ろうと、絶対に逃げずにみんなで戦おうと指切りします。

おじさんはおじさんで、コペル君のお父さんとの約束を果すべく、編集者として本をつくることができなければ、自分で本を書けばいいと決心します。

原作

漫画では、原作の大部分が割愛されています。原作では、正月五日に、コペル君と北見君と浦川君の三人で水谷君のうちに行ったときの様子が書かれ、そこで水谷君の姉さんのかつ子さんが登場します。四人の少年とかつ子さんは跳躍や三段跳びなどをして遊びます。そしてかつ子さんは四人の少年に、ナポレオンの英雄的精神の話しをします。漫画ではかつ子さんは登場しません。 

原作では、浦川君の貧乏と同時に、水谷君の富裕も対となって、欠かすことのできない箇所なのでしょう。以下は、漫画に書かれていない原作の一部で、水谷君のうちの裕福な様子です。

「品川の海を見晴らす高輪の、冬ながらこんもりと立木の茂った高台に、水谷君のうちの大きな洋館が立っています。邸のまわりに鉄柵をめぐらし、スレートで葺いた高い屋根の上には風見がついています。」

「書生さんの後について、じゅうたんの敷いてある暗い廊下を曲り曲って案内されてゆきました。」

「なんて広いうちなんだろう、こんなにたくさんの部屋を、いったい、なんにするのだろう。」

「水谷君のお父さんというのは、実業界で一方の勢力を代表するほどの人でした。方々の大会社や銀行の取締役とか、監査役とか、頭取とか、主な肩書を数えるだけでも、十本の指では足りません。」 

おじさんのノート

ナポレオンがコルシカ島のおちぶれた貴族の子として貧しい境遇に育ち、士官学校に入って青年将校となり、そこからわずか10年の間に皇帝まで登りつめ、また10年たって、皇帝から捕虜の身に落ちていった、ナポレオンの生涯の軌跡が書かれています。

私の感想 

ナポレオンは、わずか10年の間に、貧乏将校から皇帝にまで一息にかけのぼっています。それも、皇帝になったのは35才の時です。どん底に近い境遇からテッペンまで昇りつめていっています。10年という短い間にです。信じられない偉業です。ナポレオンをして、これほどまでに偉大なことをなさしめたのは、一体全体何なのでしょうか。

人生は心の置き所どころ一つ、というのであれば、ナポレオンの心は、一体どんな心であったのでしょうか。私達が学ばなければならないのは、何なのでしょうか。

ナポレオンの最後の勇姿。ナポレオンが、ベルロフォーン号の甲板に姿をあらわすと、数万の見物人で騒ぎ立っていた波止場が一時シーンとして、誰がいい出すこともなく帽子を取って無言で彼に深い敬意を表します。この光景に私達は強く感動します。それは何故でしょうか。

ナポレオンは皇帝になるまでは、人類の進歩に貢献しているといえますが、皇帝になってからはむしろ世の中にとってありがたくない人間になっています。

おじさんのノートのなかで、英雄とか偉人とかで本当に尊敬できるのは、人類の進歩の流れに沿った働きをした人だ、というのは、私達が決して忘れてはならないことだと思います。 そして英雄的気魄を欠いた善良さも空しいとされるのは、勇気をもつことを忘れてはならないという言葉に置きかえて、私達が肝に銘じなければならないことだと思います。

雪の日の出来事、石段の思い出 -人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて-

雪の日の出来事

漫画

ある日の放課後、校庭で雪だるまをつくったり雪合戦をしているとき、北見君が誤って山口君の兄貴たちのつくった雪だるまにぶつかってこわしてしまいました。水谷君と浦川君は北見君と一緒になって、兄貴たちの制裁を受けましたが、コペル君は加わりませんでした。

コペル君は、みんなを見捨ててしまったと悩み苦しみました。

コペル君は、「自分の気持ちをガッチンたちに話してくれない」とおじさんにいってみましたが、おじさんは、コペル君が自分で謝るのから逃避しようとするのをみて、君の考えは間違っているとしかりました。

コペル君は、手紙を出して正直に謝ることを決意しました。

原作

雪の日の出来事が書かれています。原作では、コペル君の心の葛藤のもようが詳しく書かれているなど少し違うところはありますが、大筋は漫画と同じです。

 

石段の思い出 

漫画

お母さんは、女学校の頃、長い石段を荷物をもって昇っていたおばあさんに、荷物を持ちましょうかとついに言い出せずにおわった経験を話し、そのときの苦い経験が後になって、「今度こそそれを生かさなきゃ」ってお母さんの背中を押してくれるという話をしてくれました。

原作

お母さんの石段の思い出が書かれています。漫画とほぼ同じ内容です。そしてコペル君とおじさんとのやりとりが、漫画では雪の日の出来事の中に書かれていますが、原作では、石段の思い出のところで書かれています。そして原作では、コペル君が三人に出した謝りの手紙の内容が載っています。

おじさんのノート 

人間は、悲しみや苦しみに出会わないことにこしたことはない。しかし悲しみや苦しみに出会うおかげで、本来人間はどうあるべきかを知ることができる。悲しみや苦しみというのは、人間が人間として本来あり得べき姿にないこと、正常な状態にないことを僕たちに知らせてくれる。

自分のしてしまったことを反省し、その誤りを悔いるということは、人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているからだ。 

自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。だから誤りを犯すこともある。

しかし-

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。だから誤りから立ち直ることもできるのだ。

私の感想

コペル君は、友達を裏切った苦しみから逃げないで、勇気をふるって手紙を出します。これにより、さらに四人の友達の友情が高みにのぼっていったことでしょう。

コペル君のお母さんは、おばあさんに言いそびれたにがい経験が、今度こそにがい思いをしたことを生かしていこうと、お母さんの背中を押してくれることがあったといっています。 

おじさんのノートでは、人間は、誰しもが過ちを犯すことがある。そして過ちはつらく感じるものであるが、つらく感じるおかげで、人間の正しいあり方を知ることができ、正しいあり方に向って一歩前進することができる、とされます。そうして人間は生きているかぎり、成長していくのでしょう。

人間は、自分で自分を決定する力をもっているゆえに、誤りを犯すこともあるが、誤りから立ち直ることもできる、それが「人間分子」の運動のほかの物質の分子の運動と異なるところだ、としておじさんのノートは終わっています。

 

凱旋

漫画

コペル君は、長い間病気で学校を休んでいましたが、ガッチン君たちに手紙を出した後、いよいよ学校に行くことにしました。コペル君は学校に行く途中で浦川君に会い、校門前で北見君と水谷君に会います。そこでコペル君は三人と仲直りします。

原作

原作では、三人がコペル君のうちを訪ねて行き、そこで仲直りをしています。そして仲直りをする様子が詳しく書かれています。

 

水仙の芽とガンダーラの仏像

原作

この章は、原作に載っていますが、漫画にはありません。

仏像をはじめてつくったのは、仏教を信仰していたインド人ではなく、インドの北西部のガンダーラに移り住んだギリシャ人であり、それがガンダーラの仏像です。彼等はギリシャの彫刻技術を知っているとともに、仏教の宗教的空気も呼吸して暮らしていたのです。

ガンダーラの仏像は、仏像ではあるが、顔つきはどこか西洋人らしく、着物の襞など、ギリシャ彫刻そっくりのものがあります。

ガンダーラにはじまった仏像は、仏教がアジアに広まってゆく勢いに乗って、アジアのいたるところに普及していって、日本にまで達しています。その間に、それぞれの民族の気質に影響されて細かい変化が生じたけれど、すくれたギリシャの彫刻技術は、結局失われずに伝わっていきました。

昼間庭に立って感じた、黄水仙の、地中深いところから地上に向かってあの延びゆかずにはいられないものは、何千年の歴史の中にも大きく大きく動いているのでした。 

春の朝

漫画

おじさんのノートは自分のものだけにしちゃだめだ、というコペル君の思いが、本に出版されることで達せられそうです。そして、もう一度おじさんとコペル君は銀座のデパートの屋上にきます。そしてコペル君もノートを書くことを告げます。

原作

上記のことは書かれていません。そのかわり、春の朝、夜があけかかったときに、コペル君は起きて、ノートを取り出すと、おじさん宛につぎのことを書いていきます。

一番心を動かされたことは、やはり、お父さんの最後の言葉で、僕に人間として立派な人間になってもらいたいというのでした。

僕は消費専門家で、なに一つ生産をしていませんが、いい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことはできます。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。

漫画・原作

そこで、-最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。-

 君たちは、どう生きるか。

 

 

君たちはどう生きるか」をめぐる回想 -政治学者、思想史家丸山真男 

 原作著者の吉野源三郎氏と深い親交のあった、政治学者、思想史家丸山真男氏の「原作をめぐる回想」が原作に付載されていますが、この回想は、原作を理解するうえでは欠かせません。

社会科学的認識の問題を提起

本書では、人生いかに生くべきか、という人間の倫理が第一義的に問われているが、それにとどまらないとし、見逃してはならないのは、社会科学的認識とは何かという問題が提起されていることであるとする。そして、むしろ、そうした社会認識の問題ときりはなさないかたちで、人間のモラルが問われているとする

地動説の展開

本書において、地動説は、一回かぎりのけりのついた過去の出来事として語られてはいない。本書では、地動説への転換、すなわち自分を中心とした世界像から、世界のなかの自分の位置づけという考え方への転換を、私達は将来にわたって不断に行わなければならないとする。残念なことに、私達は、今日も、国を中心に世の中が回っているような認識から容易に脱却できないでいる。

貧乏の問題

貧乏の問題が本書を貫通する大きなテーマの一つとなっている。本書にある貧富の差、階層の存在は、今の日本にはほとんどなくなったが、今日でも世界的規模で考えれば貧乏の問題は横たわっている。

本書の意義

回想の最後に丸山真男氏は、次のように書いています。

いずれにせよ、「君たちはどう生きるか」のすばらしさは、深くその時代を語りながら、いやむしろその時代を語ることを通じて、その時代をこえたテーマを、認識の問題としても、モラル論としても提起しているところにあるのではないでしょうか。 

 

 

私の感想・まとめ

おじさんは、お父さんが亡くなる3日前に病院に呼ばれ、「わたしは、あれに、立派な男になってもらいたいと思うよ。人間として立派なものにだね。」と言われています。漫画ではそれを受けて、おじさんは、編集者として、お父さんのコペル君にもっと伝えられることがあったことを本としてつくることを約束し、その場面を付け足しています。こうして、お父さんからおじさんへ、おじさんからコペル君に、「立派な人間」とは何か、ということが引継がれますが、漫画では、この点が、 原作より比較的、意識的に描かれていると思います。

漫画では、コペル君が成長していく姿だけでなく、おじさんも自分の役割を果しながら、コペル君や彼の友達から刺激を受けて成長していきます。

また、漫画では、いじわるされている浦川君を、北見君が山口君をやっつけるまでは、誰も助けることができなかったことに、「人間分子みたいといったけど、ひとつのかたまりとなっているせいで、かえって抜け出せなくなる」こともある等々、原作にはない著者自身の感性が描かれているところがあります。

政治学者・思想史家丸山真男氏の原作をめぐる回想によれば

1930年末の原作に展開されているのは、人生いかに生くべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何かという問題であり、むしろそうした社会認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。

とされます。

原作では、1930年末の時代の社会状況を全体を通じて色濃く反映したものとなっており、例えば「貧しき友」と対となって、漫画では割愛された、「水谷君の裕福な家の様子」が詳しく描かれ、当時に横たわる階層の存在を浮彫りにしています。

これに対して漫画では、書かれた時代背景が違うということがあるのでしょうか、社会認識もありますが、それよりもむしろ人間倫理の面に力点を置いて書かれているように思われます。

水仙の芽とガンダーラの仏像」の章は、漫画にはありませんが原作にあります。今から千六百年ばかり前に、日本に仏像が渡来してギリシャの彫刻技術が伝わってきており、すでにはるか遠い昔から、ギリシャから日本までの人間のつながりがあり、ガンダーラの仏像は「人間分子の関係、網目の法則」を象徴するものとして書かれています。

原作でも漫画でも、「コペル君は、消費ばかりしてなに一つ生産していない。しかし自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それはいったいなんだろう」ということに対して、それが何かは、本の最後になっても書かれていません。

最後に

「みなさんにおたずねしたいと思います。君たちはどう生きるか。」で、締めくられています。その答えは、私達が自ら捜し求めていくことになります。

 

当ブログでは以下のものも掲載しています。是非読んでみて下さい。

君たちはどう生きるか 補欠・不覚の涙など 私の3つの経験と思想(2018/04/17)

君たちはどう生きるか-原作は漫画と違うぞ 貧困が主要なテーマの一つ(2018/05/07) 

 

例:マンション管理士管理業務主任者

マンションの老朽化が進み、今後は管理体制の充実が必須となります。