生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

認知症治療薬を生んだ最大の要因? それは母への思い! 逆転人生のあらすじと感想

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薬のノーベル賞 杉本八郎さんの「逆転人生」がテレビ放映

本年(令和元年)7月29日、NHKテレビの「逆転人生」で、薬のノーベル賞といわれる英国ガリアン賞を受賞した杉本八郎さんのことが放映された。

杉本八郎さんが開発したのは、認知症の中で67.6%を占めるアルツハイマー認知症の進行を遅らせる「アリセプト」という治療薬である。

テレビでは杉本八郎さん自身が登場し、18才で工業高校を卒業して、製薬会社(エーザイ)に就職され、それから長い紆余曲折を経て新薬を開発されるに至るまでの経緯が描かれている。そして現在は、アルツハイマー認知症の根治薬の開発を目指されているということで結ばれている。

私はテレビに釘づけになった。

紆余曲折がドキュメンタリータッチで描かれているので、ついつい画面に引き込まれてしまった。

その中で

杉本八郎さんの母が認知症になり、それなら自分で認知症の薬を作ろうと決心したこと。

会社のニ度にわたる開発中止命令に屈せず、ついに開発まで漕ぎつけたこと。

開発チームのリーダーとして、チーム部員の自主性に委ねる方針を打ち立てこの方針を貫いたこと。

成功の原因は何かと問われれば根拠のない自信。ロジックではなくパッションだと言い切られること。

剣道7段。ダジャレ大好きであったこと。

76才だが、現在も治療薬(アルツハイマー認知症の根治治療薬)の開発を続けている。76才でも夢実現に向けて現役であること。

 

工業高校卒業後、製薬会社に就職

杉本八郎さんは18才のとき(1961年)、工業高校を卒業後、当時小さかった製薬会社に就職し、薬を開発する部署に配属された。高校程度の知識では、化学式も薬品のこともわからず、彼は会社のお荷物社員でしかなかった。定時で退社し、退社後は会社の屋上で剣道をやり、仕事2割、剣道8割の「給料泥棒」であったと自戒。

 

夜間大学に通いながら仕事に没頭 母の認知症発症

ところがそれから15年後、33才のとき(1976年)、彼は打ってかわって仕事づけの日々を過す。自腹で夜間大学に通い、専門知識を習得する。のめり込んでいったのは認知症の治療薬である。

実は、母が血管性認知症になっていたのである。

忘れられない出来事がおこった。

彼がある日、果物を買ってきたよ、と母にもっていくと、母が、

「あんたさんは誰ですか」

「僕は八郎ですよ」

「私にも八郎という息子がいるんですよ」

「あんたと同じ名前ですね」

彼は涙が止まらなかった。

彼は母親っ子で、彼はいつも母のそばにいた。ショックであった。 

当時は認知症の薬なんか無い。じゃあ、せっかく製薬会社の研究所にいるのなら、自分で認知症の薬を作ろうと決心する。

彼はひたすら薬づけの基本である合成という作業を繰り返した。複数の物質を混ぜ合わせ血管に作用する新しい化合物をつくる、いわば薬の種をつくる作業である。

見込みのありそうなものは、マウスなどの小動物に投与して効果を確認、さらに精度の高いデータを得るため、猿に投与する。猿の実験は大学に協力してもらう。片道3時間、毎週新しい化合物をもって大学に通い続けた。

そして2年後、認知症の悪化で身体を弱らせていた母が、風邪をこじらせて亡くなった。9人の子供をかかえながら朝から晩まで働きづくめで、ようやくおだやかな日々を過せるようになった矢先のことである。認知症という病で切り裂かれたのである。

彼はいつも母親のそばにいて、母親っ子であった。朝から晩まで働きづめの母親。彼の人生は何であったのか。その悲痛ははかりしれない。彼をして、認知症治療薬の開発に向けての揺るぎない情熱に駆り立てたのは想像に難くない。

 

1度目の開発中止命令

相変わらず成果のない日が続いていたが、母の死後1年、36才のとき(1979年)、ある化合物を猿に投与したところ、猿の脳の血流をよくする薬が見つかった。臨床試験まで進んだが、しかし残念なことに肝臓に副作用が見つかった。薬として失格である。

これで会社によって研究生活の終結を宣告された。

一度目の開発中止命令である。

「八郎が八年で八億円」。費やした期間は8年、かかった費用が8億円。撃墜王と陰口が叩かれた。

 

2度目の開発中止命令

不思議な偶然が起こった。

彼は41才、治療薬の開発中止命令があってから1年後、ある論文の中で、脳の神経細胞から放出されるアセチルコリンという物質が減ると記憶力がおとろえるが、逆にその減少を補う手だてがあれば症状が改善できるかもしれないという、「コリン仮説」に出会っていた。

ある日、ほかの部署で全く別の目的で作った化合物に、ほんのわずかであるがアセチルコリンの回復を助ける成分が認められた。偶然であった。

彼は、上司に直談判して、研究の開始を訴えた。

この新しく見つかった化合物を改良し、その効果をさらに高めるための新しいチームを編成する。

会社により正式なプロジェクトが認められた。

彼は、このとき管理職であった。

普通なら、リーダーが理論をかかげ、その方向で作業を進めるが、彼は、チームの部員にアイデアを自由に出してもらうことにした。1週間に10個の化合物をつくる。やり方は部員に任せる。数打ち当る作戦である。そして、彼は、資金を調達したり、行き詰った時にアドバイスをしたりして、陰で部員を支える役割を担った。

改良された化合物をつくるには、数をつくらなきゃならない論理と、論理的につくらなきゃならない論理と2つの考えの対立があるが、彼は前者を採ったのである。

薬の開発とは広い砂漠から一粒の砂金を探し当てるような作業。自分の発想には限界がある。むしろ意外性が大事。ロジックで成功するなら、みんなが成功している。ロジックの外にあるところが成功するかどうかの分かれ道。

しかし数打ち当るやり方は失敗をたくさん味わう両刃の剣でもある。なかなか功を奏しない。2年経ってもダメ。そのうち部員から不満が出てきた。自由に任されているが、かえって自由でバラバラになってしまう。やはり統一した考えのもとにやらなくては、このままではバラバラになりかねないと。

彼は一計を案じ、幾度となく、部員を自宅に招いて妻の手料理でもてなした。

開発をはじめてから3年。ついにアセチルコリンの回復を助ける成分が当初の化合物の2万倍以上ある最強の化合物が土屋部員によって見つかる。世界最強の化合物である。

しかし、残念なことに、動物実験をすると、これは脳に辿り着くまでに肝臓で分解されてしまう。脳に辿り着けなければ意味がない。 

イムリミットである。

会社からチーム解散の命令が下った。

2度目の開発中止命令である。

 

治療薬「アリセプト」の開発に成功

アセチルコリンの回復効果は明白。ただ脳に辿り着けないのに過ぎない。彼はあきらめきれない。彼は何度も上司に開発の再開を頼んだがダメである。

ある日、新任の部長が様子を見にやってきた。

「次の研究はどうですか」

「便所の火事ですよ」・・・「ヤケクソ」です。

成功する2つのコツは「コツコツ」です。

彼はオヤジギャグを連発した。部長はオヤジギャグが好きでした。

その後、1年との期限付きで研究再開という嬉しいニュースが飛込んできた。

チーム再結集である。 

土屋部員が作った化合物を、脳に伝達する前に肝臓で分解してしまう欠点を克服する、ものにする。

チームには飯村という大学院を出たばかりの若手が合流した。彼はマイペースで、自分が納得できないものはやらない。我が道を行くというタイプである。

そのうちチームに不協和音が生じてきた。

方針を統一するか、今までどおり自由にやらせるかで杉本八郎さんは岐路に立たされた。

杉本八郎さんは逡巡したが、方針は変えないことを貫いた。

不可能なことを常識どおりのやり方でできるわけがない。人のやらないことをやるのが研究。人のやらないことをやらない限り一番になれない。

マイペースを貫く飯村はケトンという合成に興味をもち、一人だけ他の部員と違うアプローチで化合物をつくり、与えられた課題を解決しました。

 

現在進行中の開発

杉本八郎さんは、4年前、大学の部屋を借りてベンチャーを立ち上げ、3人の部員を使ってアルツハイマー認知症の根本治療薬、GT863の開発研究中で、手応えのある化合物は出来ているということである。もちろん、3人には自由にやらせる方針で研究をすすめている。

 

杉本八郎さんから学ぶ6つのこと

1.彼は9人兄弟の8番目、母親っ子でいつも母のそばにいた。

家は貧乏で、母は朝から晩まで働きづくめであった。彼は「私の運の強さの原点は親孝行にあると思っている」という。凄い言葉である。

母が認知症であったこと、結果的には母を認知症で亡くしたこと、悔しさは如何ばかりのことであったか。

その思いが、彼を認知症の治療薬の開発に駆り立て、研究の途中で挫けそうになったのを支えていったのではないか。

開発を成し遂げた要因はひとつではないが、最大の要因は母への思いではなかったろうか。

運の強さの原点は親孝行と言い切る言葉に、人生の深みを感じる。

 

2.会社の2度にわたる開発中止命令に屈せず、ついに新薬開発まで漕ぎつけている。

彼は「諦めなかった人が成功者になれる、成功するまでやる」という。

また「自分を信じること、そして人のために貪欲であること」が大事だという。

成功した人の言葉で重みがある。

私は、何かを成し遂げようとするとき、果して成功するまでやり続けてきたのだろうか。殆んどの場合、理屈をつけて途中で放り出していたのではないか。

成功する2つのコツは「コツコツ」。諦めなかった人が成功者になれる。成功するまでやる。この言葉は、私には大変な良薬である。気の遠くなるような作業も続けられそうだ。

 

3.認知症に有効な化合物を見つけるのは、広い砂漠から一粒の砂金を探し当てる作業。一般的に確率は1/13000といわれる。

普通ならリーダーが方向性を示し、そのレールに従ってチームのメンバーが化合物をつくっていくのでしょう。その方が一見早道のようにみえるし、メンバーも気が楽。

しかし、彼は、チームのメンバーに対し、自由な発想とアプローチで研究させている。驚きのリーダーシップである。簡単そうにみえるが、この決断は並大抵のものではない。結果が出なければ途中でブレてしまう。

彼は言う。「一見、マネージメントのない無秩序の研究のように見えるが、本人の自主性がモチベーションを高めるスイッチとなる」

新しいリーダー像が提示されている。

 

4.成功の原因は何かと問われれば根拠のない自信。ロジックではなくパッション。

ロジックで成功するならみんなが成功している。

ロジックの外にあるところが成功するかどうかの分かれ道。

彼の行ったチームのメンバーの自由な考え、発想、行動にまかせる、というのと相通じるものがある。

彼の考え方もひとつの考え方であると認められるとして、私が驚かされるのは、彼はそれを信じていることである。信じ切っていることである。

 

5.剣道7段、ダジャレ大好き。

このことも私は妙に引っかかる。

ダジャレ大好きは、治療薬開発にとって案外大きな力となったのではないか。心のゆとりであり、場をなごませるものである。

剣道7段。

ひょっとして運動の効用は大きいのでは。

そういえば癌の治療薬オプジーボノーベル賞を受賞した本庶佑さんはゴルフでエージシュート(自らのラウンドスコアが年齢(現在76歳)と一致、もしくは下回ること)を達成したいとか。

 

6.杉本八郎さんは76歳、現在もアルツハイマー認知症の根本治療薬の開発に挑戦している

人生で大切なのは過去の栄光ではない。現在及び未来である。現在及び未来にとって、経験は原動力となるが、反面引きづりまわされる側面をもつ。

人生は現在及び未来である。彼はこれを実践している。 

 

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