- 1.人生は、感動と忘却、そしてまた感動と忘却の繰り返し
- 2.「ザルと水」の話。ザルに水を入れても水は少しもたまりません。
- 3.ザルに水を入れるのではなく、水に浸しておく
- 4.ザルを水に浸しておくにはどうしたらよいか。
- 5.土光敏夫 座右の銘「日に新たに、日々新たなり」と毎朝の読経
1.人生は、感動と忘却、そしてまた感動と忘却の繰り返し
誰しも、今まで生きてきたなかで、一度といわず二度、三度、心の底から感動し、それを自分の身につけたいと思ったことがあるのではないでしょうか。
例えば、A君は、「感謝する」ことが人生でどれほど大切かということを真底教えられたことがあったとします。
A君は感謝することの大切さを真底理解し、心に刻みます。よし、この言葉を忘れないで、これからの人生を生きていくぞ、と決意します。
当分の間は、A君は、その思いを続けることでしょう。しかし、時間が経つとどうでしょうか。あれほど感動したというのに、感謝の大切さを知った当時の高ぶった感情は色褪せてきます。そうすると感謝する心は忘れられていきます。
元の木阿弥です。振り出しに戻ります。
あの新鮮な気持ちはどこにいったのか。これからは感謝、感謝だと強く自分に言いきかせてきたのにです。
感動し、忘れる。そしてまた感動し、忘れる。
人はこれを繰り返して人生を過ごしていきます。これは誰にも当てはまることではないでしょうか。せっかく感動したのに、もったいないことですが、殆んどの人が身についていないと思います。
2.「ザルと水」の話。ザルに水を入れても水は少しもたまりません。
上の消息は「ザルと水」で考えるとよく理解できます。ザルを人間、水を感謝とします。
せっかくの感謝という水も、ザルの上からかければ一時のほんの少しだけザルにひっかかりますが、すぐにザルの網目の隙間を通ってザルの外にこぼれ落ちてしまいます。ザルに一時は水がひっかかりますが、いつまでもとどまりません。水はザルからこぼれ落ち、ザルは空っぽになってしまいます。
ザルという人間は、感謝という水を、長い間、自分の中にとどめることができません。
ザルは空っぽのままですと、しばらくするとまた水が欲しくなります。そこで、また水をザルのうえからかけます。そうすると水はザルに一時はとどまりますが、それもつかの間でまた網目の隙間からこぼれ落ちてしまいます。ザルに水は少しもたまりません。
3.ザルに水を入れるのではなく、水に浸しておく
しかし、ザルの上から水をかけるのではなく、ザルを水の中に浸しておけばどうでしょうか。この場合は、ザルはつねに水にふれています。感謝という水がつねに存在し、感謝の気持ちを忘れることはありません。
そうです。感謝の気持ちを忘れないでいるためには、ザルを水に浸しておけばよいのです。
4.ザルを水に浸しておくにはどうしたらよいか。
それではザルをつねに水に浸しておくためにはどうしたらよいのでしょうか。
それには、四六時中、感謝、感謝と、自分に言いきかせればよいということになります。つねに自分の身にまとわりつかせればよいということになります。そうすればザルをつねに水に浸すということになります。
このように考えると、毎日、毎日、感謝、感謝と唱えれば、感謝という水につねに浸っていることになりはしまいか、と思うのです。
朝に昼に夜に感謝を唱え続ければザルは水の中に浸ったままにおかれるでしょう。少なくとも毎朝欠かさずに、感謝を唱えれば、ザルの中の水は切れないでいることになりはしまいか、そう思うのです。
5.土光敏夫 座右の銘「日に新たに、日々新たなり」と毎朝の読経
以上のことを考えると、私は、土光敏夫を思い起こします。
土光敏夫は、石川島播磨重工業の経営危機に臨み、徹底した経営合理化を行って会社再建を果し、さらにやはり経営難に陥った東芝の再建に辣腕を振るって成功をおさめます。そして経団連の会長に就任し、2期6年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化に尽力します。また臨時行政改革推進審議会の会長を務め、「臨調の土光」の名を世に轟かせます。
経営の辣腕振りを称して、「ミスター合理化」、「荒法師」と言われていますが、生活はすこぶる質素で、「メザシの土光さん」は有名です。石川島、東芝、経団連の重役となっても、社用車を使わず、JR鶴見駅まで歩き、電車に乗って会社へ通っています。
ソニー創業者井深大は「今の日本で最も尊敬できる人物は誰かと聞かれれば、無条件に土光さんと答える」と述べています。
土光の座右の銘は「日に新たに、日々新たなり」です。
「今日なら今日という日は、天地開闢以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごさなければならない。そのためには、今日の行いは昨日より新しくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくなるように修行に心がけるべきである」という意味。
中国・商時代の湯王が言い出した言葉で、湯王は、これを顔を洗う盤に彫り付け、毎朝、自戒したという。
土光は、毎朝、4時半に起き読経を唱えて7時に出社しています。
毎朝4時半の読経は、ザルを水に浸す役割があったのではないでしょうか。
毎朝の読経で「日に新たに、日々新たなり」を片時も忘れることがなかったのではないでしょうか。