生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

真の幸福感(土地の有効利用でのオーナーとの出会い)

自分が最も大切に思うまさにその人から、自分もまた最も大切にしてもらっていると信じることができる時こそ、人は真の幸福感を味わうのである。-大学時代の恩師、I先生の「あれやこれや」から

 

思いもかけなかった電話がかかってきた。  

平成28年12月3日(土曜日)。自宅に不意に電話がかかってきました。また、セールスの電話かと思って渋々受話器を取り上げると、「〇〇です。お歳暮を有難う。私も近いうちにいつものグレープフルーツを送らせていただきます。」開口一番、〇〇と言われて面喰らいましたが、すぐに思い出しました。私のサラリーマン時代、今から30年近く前になりますが土地の有効利用で、比較的大きなビルを建設させていただいた、その時の土地の所有者であるオーナーからの突然の電話でした。

 

はじめてのオーナーとの出会い 

オーナーとはじめてお会いしたのは、まだバブルが弾ける前の昭和62年9月18日です。私が42才の時です。オーナーは確か50才前後であられたと記憶しています。 

オーナーは中小企業の社長で、30才になる前に先代の社長がお亡くなりになり、それから事業を引継いでこられたということでした。若くから事業を切り盛りされ、そのご苦労は並大抵のことではなかったと思います。第一印象は厳しい方だなあ、というのがあります。一種独特の雰囲気をもっておられ、中小企業の経営者は違うなあ、サラリーマン上がりの経営者とは面構えからして違うなあ、とつくづく思ったものです。

 

マンションのすすめ 

当時は土地の有効利用が盛んに行われていた時代で、私はある都市銀行の支店長の紹介で社長(以下オーナーのことを私が呼び慣れている社長と呼びます)にお会いすることになりました。 

土地の有効利用では、何が一番その土地に相応しいか、ということからはじまります。当時はバブル崩壊前で世の中が上昇気流に乗っていましたので、何か斬新なものはないか、事業として大きな収益の上がるものはないか、というのが社長の期待されたものであったと思います。私のお会いする前には、社長はすでに何社もの提案を受けておられました。 

私はいろいろ考えましたが、有効利用しようとする土地は、山手線「目白」駅から徒歩11分、「高田馬場」駅から徒歩12分で、駅周辺から少し奥まったところにありましたので、マンションが最適だと判断しました。それで思い切ってマンションの提案を行ないました。そのかわり、周辺に見られた大衆向けのものではなく、若干グレードの高いものを提案しました。高級マンションの立地ではありませんが、さりとて大衆向けマンションでは面白味がないので、将来を見据えて、若干グレードの高いものを考えました。そうして全額借入による場合と等価交換による場合の事業収支を作成して説明しました。 

何度かはマンションの提案で進めていきました。マンションでは間取りが如何に大切か、自分で収集していた各社のパンフレットで、プライベートルームとパブリックルームの分離に向かっていた当時の間取りの流れや、高級マンションの間取りを示して、良い間取りと悪い間取りを説明しました。またマンションの完成した模型を持参したりしました。マンション案を進めているときのある日、社長から「大手の△△建設会社が今までにない立派な提案書を持ってきたよ。もっともオイシイ話は気をつけなくてはならないと思っているけどね」と言われたことを覚えています。 

マンション案を進めて社長とお会いするのも多くなった頃、都内の事務所ビルの事情がどんどん変わってきました。事務所ビルの借り手の需要が旺盛になり、新規募集賃料が大幅に上昇するだけでなく、事務所立地も広がっていきました。

 

事務所ビルに方向転換  

私は事務所ビルの市場が大きく変わっていく動きをみて、マンションから事務所ビルに方向転換する提案を社長に行ないました。ただし、有効利用しようとする土地は、従来からの事務所立地ではなく事務所立地としては弱いこと、汐留等の湾岸部で、まだ計画が決定されているわけではないが事務所ビル進出の動きがあり、将来、これが競争相手になる可能性があること、これらを考慮して、20年間の賃料保証(一括借上げ方式)をつけました。私の会社では賃料保証に応じませんでしたが、某大手デベロッパーが賃料保証に応じてくれました。 

マンションでは新鮮味がなかったこと、マンションより事務所ビルの事業収支が良くなったこと、これらのためと思いますが、社長は事務所ビルの方向に舵を切られました。

 

設計事務所の選択  

私は当計画の初期の段階では、数社の設計事務所に設計プランを依頼しました。そしてある段階から、設計プランの優れていたS設計事務所に絞り込み、それからはS設計事務所と基本プランの修正、変更を進めていきました。 

S設計事務所は所長以下10数人のスタッフのいる小さな事務所でした。社長は、設計の良否は大手の設計事務所といっても実際に担当する設計者次第で決まる、ということを諒解されていましたが、S設計事務所の力量を不安がられていました。そこで私は社長をお連れしてS設計事務所の所長と一緒に都内のマンションを1日がかりでご案内しました。 

S設計事務所が設計したもの、私が関係したものを中心に5物件です。あいにく事務所ビルで私達には該当するものはありませんでしたのでマンションのみの案内となりましたが、設計事務所の力量、設計で目指そうとする建物の品質を、ある程度はお示しすることはできたのではないか、と思っております。もっとも社長はもう少し高いレベルのものを期待されていたようで「自分の求めるものは贅沢すぎるかもしれないなあ」とつぶやかれ、少し不満気ではありましたが、少なくとも私達の熱意は感じられたと思います。

 

事業収支と提案書  

社長はお会いするたびに、私が持参した事業収支の問題点をご指摘されました。マンションと事務所ビルを合わせるとその数は夥しいものになりました。また基本ブランは何度も書き換え、提案書も何度も提出しました。事務所ビルでは、基本コンセプトを「都心における閑静で広い執務環境を提供する。周囲の緑とマッチして、落着いた気品のあるビル」とし、豊富な地下駐車場の完備(大型車18台を含め28台設置)、玄関アプローチ・玄関・玄関ホール・ロビーは適切な広さでゆとりを演出、インテリジェント設備の設置(光ファイバー対応、OAフロアー、システム天井等)、自然換気を配慮した空調設備、24時間対応の警備管理システム等々。

 

社長の決断  

社長は私の提出した膨大な提案書、事業収支をそっくりそのまま持参されて渡米されました。さぞかしかさばったことでしょう。社長は若くして事業を引き継がれましたが、相談に乗っていただける方がアメリカにいらっしゃいました。おじさんにあたる方でアメリカで事業をなさっていると聞いた覚えがあります。社長は最も信頼された方に計画を実行してよいかどうか相談されたそうです。そこで、これだけ親身になって対処した方に計画を委ねてよいのではないか、という返答をいただいたそうです。 

社長はアメリカから帰られて、私を呼び出されました。そして事務所ビルの計画にゴーサインを出されました。このときの私の喜びはとても言葉では言い尽くせません。ジーンと胸を打ちました。喜びが爆発するのを必死に堪えました。「有難うございます」誠心誠意、お礼を述べました。 

「勝負の分かれ目は諦めようとした、その時」というタイトルで以前このブログで書きましたが、社長を説得するのに2~3年はかかっています。これほどまでにやってきても社長からゴーサインをもらえない。一体いつ頃ゴーサインを出してくれるだろうか。この話はやはり無理かもしれない。諦めようと思いましたが、何とか踏んばって社長を説得しつづけました。その結果、社長からゴーサインをもらいました。やっとのことで説得が功を奏しましたので、この事務所ビルへの私の思い入れは大変強いものになりました。

 

基本プランの練り直し 

 

社長との間で、私の会社と企画コンサルタント契約を締結、引き続いてS設計事務所との間で設計契約を締結、その後はビルの基本プランを数回にわたって練り直し、それからS設計事務所による設計の実施計画に入り、建築確認を取得し、あとは建設会社を選定し、ビルの着工に入る運びとなります。 

基本プランの練り直しには、S設計事務所のほか社長のご要望で社長のご自宅を設計されたO設計室の所長がアドバイザーとして加わることになりました。S設計事務所は所長外1名、O設計室も所長外1名、そして私と、合計5人で基本プランの練り直しを行ないました。 

原宿にあったO設計室の事務所で、数回にわたり会合を重ねました。この会合は実に楽しいものとなりました。アドバイザーのO設計室の所長が設計された住宅は某住宅雑誌にしばしば掲載されていました。O所長は設計センスがよいばかりでなく、人柄や生き方も素敵で、私もS設計事務所の所長もその魅力に引きつけられました。会合の後は決まって、O所長おすすめのサントリーホワイトの水割りをみんなで飲みました。お互いの知恵がうまく噛み合って上々の基本プランが出来上りました。

 

建設会社の選択  

ビルの設計が進んできたので、建設会社をどこにするかという段階になりました。建設会社は、社長とS設計事務所そして私とそれぞれが候補を挙げ、数社による競争入札を行なうことにしました。その結果、建設会社の信頼度、建築コスト等から社長推薦のM建設に決まりましたが、これは比較的うまく行きました。M建設とS設計事務所推薦のK建設が最後に残りましたが、2社による競争によって、建築費が当初の見積りより相当に安く抑えることができたからです。

 

現場所長の決定  

私は当初、建設工事の出来不出来は工事の現場所長によるところが大きいということを知っていましたので、現場所長がどんな人になるかに神経を使いました。M建設に当ビルで予定する現場所長を示してもらい、その所長が実際に携わった建物を見せてもらいました。私はどうしても納得できなかったので、もっと技術レベルの高い所長はいないか、いたらその人が携わった建物を見せて欲しいと頼みました。紹介された建物は、施工技術の難しいものでしたが、良くこなされていると判断しましたので、この現場を担当した所長を使いたいとM建設に申し出でし、諒解を取り付けました。一介のサラリーマンがM建設に対し工事所長を逆指名するなどは前代未聞のことだ、と社長はある人に言われたと私に話されましたが、内心は喜んでいただけたのではないかと思っております。

 

建築工事の着工から建物完成まで 

建築工事を着工するとなると、工事現場周辺の地権者に挨拶回りをしなければなりません。私達が「近隣交渉」といっているものです。私はS設計事務所と一緒に、工事の規模、スケジュール、工事騒音、日照阻害、電波障害等について説明していきました。その際、当工事について全員が全員、快く承諾していただき、クレームや注文は無いに等しいものでした。この近隣交渉では、土地所有者(オーナー)の日頃からの近隣に対する接し方がわかるもので、社長が近隣を大切にされていたことがよくわかりました。 

建築工事を着工する段階になって、私は会社で別の部署に配置転換され、工事着工から建物完成までに行われる工事定例会には、残念ながら出席することができませんでした。私は当ビルのプロジェクトをS君に引継ぎ、後のことはS君に託しました。S設計事務所、O設計室、M建設S所長、そしてS君と、幸いなことに素晴らしい組み合わせに恵まれ、工事は順調に進み、建物は完成しました。建物が完成したのは平成5年9月ですから、私がはじめて社長にお会いしてから、ちょうど6年になります。

 

建物完成から今日まで 

建物完成後は早々にテナントも決まりましたが、時間が経っていくと、ちょうどバブルが弾ける時期と重なり、テナントが空いてもすぐに埋まらなくなり、賃料もプロジェクトスタート時点から比べると下降していきました。そういうなかで、賃料保証を約束した某デベロッパーから、保証額の値下げの要求が一度ならずニ度もなされました。この時期には賃料保証を行った業者には、テナントからの賃料収入とオーナーへの賃料支払いが逆転する逆ザヤ現象に見舞われるところが出てきて、裁判所で賃料保証の有効性を争うところが多くなりました。 

私はその度に社長から相談され、弁護士との打合わせに同席しました。結局のところは社長は、社長の方で多少折れた形で決着をつけられました。 

建物が完成してから10数年過ぎた頃でしたか、社長からビルを売りたいので相談に乗ってくれという申し出でがありました。1回目の相談のときは時期が早いと思ったので賛成しませんでしたが、2回目のときは、売るなら良いタイミングと判断し賛成しました。そして売却資金の活用ということで、恵比寿の高級マンションのご購入のお世話をし、テナント決めの手伝いをさせていただきました。 

社長には、土地有効利用で事務所ビルを企画させていただいたご縁で、そのほかにもいろいろなことをさせていただきました。社長ご所有の千駄ケ谷のマンションの売却、工場の不動産鑑定等々。またご子息の結婚式に呼ばれたり、私がサラリーマンをやめて独立する際には激励金をいただいたり・・・・・。 

社長とは仕事がらみでお会いすることがなくなってから久しくなりますが、お互いにお歳暮のやりとりは続いています。

 

ある感慨 

電話を受けて社長としばらくの間、話をしました。社長は少し体調を落としているということでした。私は、近いうちに社長の事務所に遊びに行きます。よろしいですか。と言いましたら、食事でも一緒にしよう、ということでした。 

受話器を置いてしばらくすると、私は胸に熱いものが込み上げてきました。

 

何をボンヤリしているんだ。

お前は十分に仕合わせだ。

そのことに気付いたか。

 

お前は長所もあるが、欠点もある男。そのお前を、社長は忘れないで思い出して下さっている。私は、社長の私を大切におもって下さる思いが伝わってきて、つくづく仕合わせだと思いました。私は私自身、生きるに十分値すると思いました。

 

幸福。人を大切にし、大切にされること。 

「自分が最も大切に思う人から大切にされているという実感をよそにして、どこにも幸福の実体は見出されない。およそ人から大切にされないということ、それが人間の不幸である。人から大切にされても、自分が最も大切に思う人から大切にされないかぎり、幸福はなお半ばであろう。自分が最も大切に思うまさにその人から、自分もまた最も大切にしてもらっていると信じることができる時こそ、人は真の幸福感を味わうのである。そうして、他人を大切にしない人が、他人から大切にされる資格はなかろうかと思われる。」

-私の大学時代における恩師の「あれやこれや」から