大学での講義は素晴らしかった
私は大学時代の3年と4年を民事訴訟法(法律のひとつ)のゼミに所属していました。その時に指導していただいた先生からお聞きした話の一部をここで紹介したいと思います。
先生の大学での講義は、民事訴訟法という学問の領域での先生の自説を展開されたもので、当時の学界のトップ水準をいくものでした。大学の講義は学界のトップ水準のものでありたい、というのが先生のお考えではなかったかと思います。
私達学生はこの講義で、学界のトップ水準についていこうとするのですから容易なことではありません。しかし、先生の理路整然としたわかりやすい講義のお蔭で、私はなんとかついていけました。
講義は迫力満点で素晴らしく、ピーンと緊張の糸が張りつめていました。私は講義に夢中になりました。一言も聞きもらすまいと必死でした。
ところで、先生は、趣味が理論物理学というぐらいで、飛び抜けて頭脳明晰な方でした。
大衆が興じる盆踊りに対して・・・・・
先生は若い頃、盆踊りに反吐が出そうだったそうです。そしてそういう自分にずいぶん悩まされたそうです。しかし、ある時、大勢の人が興じている盆踊りが理解できなくて、どうして人生がわかろうか、と思ったそうです。盆踊りがわからないようでは、人生の何事もわかろうはずがないことに気がつき、それからは自意識の呪縛から解放されたそうです。
頭脳明晰、それも飛び抜けて明晰な人は、自我が強く、そのため自意識がきわめて強いといえるのではないかと思います。そして過剰な自意識に悩まされることが多いと思います。
過剰な自意識に悩まされた人で有名な人といえば、小説家の芥川龍之介がそうではないかと思います。彼は自殺しましたが、それが過剰な自意識のためかどうかはわかりません。しかし、多少なりとも関係があるのではないかと思っています。
先生は大衆が興じる盆踊りに理解を示されることで、自意識の呪縛から逃れられ、人格を形成されていかれたのだなと、私は勝手に想像しています。
先生は頭脳明晰であられるだけでなく、人格も兼ね備えられ、学生や学者仲間から尊敬されていました。
古典を越えるもの
「古典といわれる作品は、泡沫作品がすぐ消えてしまうのに対し、時代を越えて長く存続し、多くの人に読まれていく。しかし、もっと秀れた作品は誰にも理解されないまま消えてしまう。秀れた作品を書く者は、その孤独に堪えていく覚悟が必要である。」文芸評論家の小林秀雄氏によっておおよそこのようなことが書かれていて、それを、先生が雑談の中で私に紹介されました。
先生は民事訴訟法の学者でしたから、自分に置きかえて考えられたのでしょう。もちろん、先生もおっしゃっていましたが、自説を人に理解されるように努力することは大切ですし、それに労を惜しんではなりませんが、誰にも理解されないままで終わることもあるという覚悟、その孤独に耐える覚悟が必要だ。そういうことを示唆するのが小林秀雄氏の言葉だったのでしょう。
古典以上の秀れた作品は、誰にも理解されない側面があることは、理くつのうえでは当り前のことで、飛び抜けた力を凡庸な人が理解するには限界があります。優秀すぎて知性がそこまで及ばないことは、ごく当たり前にあることです。
先生がこの話を私にされたのは、そのことではなく、後半の誰にも理解されないままに終わってしまうかもしれないことを覚悟すること、自分の学問を進めるうえでの心構えを学んだ、ということなのでしょう。