生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか。

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 某テレビ局で、インドの北東に位置する「ブータン」を取材している番組があった。(ブータンの自然は私の小学校低学年の頃、昭和27年~30年頃、夏休みを過ごした親戚の田舎、出雲の風景よりさらにのんびりしていた。)その中で初老の人がインタビューに答えて言ったことが強く胸に響いた。
「生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか」
私は今までにこれほどの哲学に出会ったことがない。

ブータンの初老の言葉は含蓄があります。貴方がそれに心を動かされたことに感心しました。みんなが初老の心をもてば、世の中に争いごとがなくなるのにね。

以上は私の年賀状に対し、私の尊敬してやまない大学時代の先生からのご返事です。正確な内容は、今は先生からの葉書を手許に置いていないので、たしかではありませんが、およそ以上のような内容であったと思います。

東日本大震災(平成23年3月11日)の被災地をブータンの国王が訪ねられたことでブータンの名前が広く人々に知れわたることになりましたが、上の年賀状はその数年前に出したものです。

 

「長生きとは」

私達がよく口にする言葉に「長生きしたい」ということがあります。できるだけ「長生きしたい」と日常的に使われています。
また、老人に対し「長生きしてくださいね」といい、これに対して老人は「はい」とか「有難とう」とか返答します。

私は、今まで「長生き」という言葉がピンときませんでした。というより、半分しか解らなかったというほうが適切かもしれません。

長生きするに越したことはない。誰しもそう思うでしょうし、私もそうです。一応はそう思います。

しかし、他方で、毎日毎日をダラダラと惰性的に過ごして長生きするのにどれほどの意味があるのだろうかと思ったりします。それよりも短かい人生でも日々充実した毎日を過ごすことのほうが、よほどましではなかろうかと思ってみたりします。

しかし食っちゃ寝、食っちゃ寝の毎日でも、生きているだけで「十分に仕合わせ」であれば、生きていることそのことが感謝であり、「長生き」は素晴らしいことなのだ。「長生きしてくださいね」とは意味のある言葉なのだ。そういうふうに思うことができます。

もちろんダラダラと惰性的に生きるよりは、何かに挑戦して生き生きと生きることの方が充実した人生に違いありませんが、挑戦して生きても絶えずフラストレーションがたまり、不満が残る生き方よりも、何の変哲もない毎日でも生きているだけで十分仕合わせだ、と感謝して生きていくことの方がよっぽど高等だ、といえないでしょうか。


「生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか」

この言葉に脚色をつけることはいくらでもできます。欲望には際限がない。事足りることを知ることが大事だ。毎日、毎日を感謝、感謝で生きることが大事だ。

それよりもこの言葉そのものの響きが一番。
折にふれ、また困難にぶち当って困ったとき、今でも、この言葉は私の腹にすわり、安心をもたらし、力を与えてくれます。

「生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか」