恩師の書かれた「寸感・随咸・補感」の「補感」から
もともと、キヅナとは、強暴な牛が逃げ出さないように、太く丈夫な綱で杭にくくりつけて置く、そのツナのことである。飼主も、本当なら(そうして、出来るなら)、そんなことはしたくないのである。強暴な牛をくくりつけるのだから、取りわけ丈夫な太いツナでないと役に立たない。そのために使われる太い丈夫なツナが、キヅナである。だから、たしかに、有用で、適切だが、決して望ましいというものではない。
それが、昨今では、どうやら望ましいこととして言われているのではないか。恐らくは、「連帯」「思いやり」「人のためのハタラキ」を奨励したいという趣旨なのだろう。そのこと自体は結構だし、また、たとえそれが誤用であったとしても、世人が歓迎して一般に流布すれば、誤用も正法に転化するという道理もある。だが、どんな誤用の正法化も、コトバの美化に譲らなければならない。
「キヅナ」の場合は、簡単に「権力的強制」に転化する表現だから、美化の責任は、この転化を許さないハズなのである。もし、キヅナ自体を望ましいもの、美しいものとされて、そうした意識が優勢になると、全体社会の強権的な個人支配が美しいものとされるに至ることであろう。その結果が、どうなるのかは、もはや、言う必要もないのではないか。それにも拘わらず、絆(キヅナ)の語は、昨今の社会の、むしろ流行語になってしまっているだろう。或る大きな基地に、堂々と「絆」の一字を大書した巨大な石碑も作られてしまっている。危いことではないのか。世人の注意が喚起されなければなるまい。
私の感想
以上は、私の大学時代の恩師が、「寸感・随咸・補感」として、知己の者に配られた34頁からなる小冊子の中の「補感」(平成25年3月29日、先生が90歳のときに書かれています)に書かれた中からの抜粋です。
私は、先生の小冊子を拝見させていただくまでは、絆が、強暴な牛が逃げ出さないように、太く丈夫な綱で杭にくくりつけて置く、そのツナのこととは知りませんでした。「権力的強制」に転化する表現だとは思いもよらないことでした。
絆、絆といってマスコミが取り上げ、みんなが助け合っているのはよいではないか、と漠然と思っていました。しかし、一方で絆、絆と至る所で使われてくると、何だか気持ちが悪く船酔い気分になっていました。それこそ「全体社会の強権的な個人支配が美しいものとされる」のではないかと危惧されてくるのです。
私達には、個人の自立、尊重がありますが、一方で、他人の中で他人とともにしか生きられない、ということがあります。このような私達が、他人を思いやるということは必然のことですが、そのため、個人の尊厳が損なわれるのであってはならないと思います。絆、絆といって、他人を思いやり、他人のために働くのはよいことですが、絆という言葉で個人が個人の自由を縛り、社会ひいては権力が個人を拘束することは、決してあってはならないことだと考えます。言葉は、言霊といわれるくらいで、強い力をもっています。絆(キヅナ)の意味を正しく理解することはとても大切なことだと思います。